昏い欲望 −ある女生物教師の願望− (1/4)

「うーん、なかなか出てこないわね」

 校門が見える位置に停めたジープ・ラングラーの運転席から、私は仕事場である男子校を眺めてぼやいていた。
 最後に残っていた生徒もずいぶん前に帰宅していて、校舎で照明がついているのは職員室だけ。そこには仲のよい同僚の女教師がひとり残っているはずなのだけど、いっこうに電気が消えて出てくる気配がなかった。
 ハンドルに寄りかかっていると、手が無意識に助手席に置いたバッグに伸びていた。そこにあるマルボロの箱を掴みそうになって、禁煙をはじめたのを思い出す。

「彼女のすすめで、やめるって決めたんだった……」

 前の恋人と付き合っていた時に、真似をして吸いはじめた煙草だった。彼との失敗を思い出して、つい大きなため息をついてしまう。

「そろそろ恋人が欲しいなぁ……」

 そう呟いてしまったものの、また恋愛で痛い失敗はしたくなかった。苦い過去を振り払うように煙草の箱を掴んで足元に置いてあるゴミ箱へと放り込むと、気を取り直して正面へと目を向ける。

「でも、門を閉じてから結構たつけど、なにやってるのかしら」

 待っている彼女とは去年の春に生物の教師として赴任してからの付き合いで、同じ時期に赴任して歳も近いのもあって仲良くしてもらっていた。

(こんな私に親しくしてくれて、いい人だよね)

 背が小さく地味な容姿の私は自分でいうのもなんだけど大人しい性格で、なにごとにものめり込みやすい性分だった。
 凝り性とか真面目だと言われることもあるけど、単純で融通がきかず不器用なだけなんだと思っている。
 なにか好きなことや気になることが出来ると、それ以外のことが見えなくなるし、好きな人なんてできるともう頭の中は相手のことでいっぱいになるから友達付き合いも下手だった。

(今回こそと思ってたんだけど……)

 職場である学校でも授業や実験の準備をやりはじめるとついつい夢中になって、自分が管理する生物室にこもりがちになってしまうから他の教師の方々とは付き合いが薄くなってしまっている。人との距離感をはかるのが下手なのも加わって学園内では孤立しがちになっていた。
 普段の姿も白衣の下はいつも白のブラウスとグレーのズボンのお決まりの組み合わせで、伸ばしっぱなしの黒髪を髪止めでまとめているだけだし、顔もスッピンで大きめの黒縁メガネで隠している。そんなんだから、生徒たちにも生物室の地味子ちゃんとナメられて茶化されている始末だった。
 そんな時、怒ることのできない私に代わって、毅然と生徒たちを叱りつけてくれるのが同僚で体育教師の颯乃 翼(そらの つばさ)先生だった。
 私と違ってスラリと背も高く、日々のトレーニングで無駄なく引き締まった身体は同性から見ても惚れ惚れすぐらいで、それでいて女性としての部分はしっかり出ているのだから、もう凄いとしか言いようがなかった。
 顔立ちも宝塚の役者もビックリの美貌で、キリリとした眼差しで見つめられるともう心臓がドキドキしてしまう。
 もう羨ましいとかを通り越した憧れの存在、私のアイドルになっていた。
 そんな彼女だったけど、私とは本当に仲良くしてくれていて、いろいろと世話を焼いてくれる。
 週末には彼女の大好きなお酒を一緒に飲みにいくことも多いし、休みの日には買い物や遊びにも連れていってくれる。
 この前の誕生日には、彼女が行きつけの美容室を予約しておいてくれて、カットやメイクアップをした私にコンタクトやおしゃれな服までプレゼントしてくれた。

『ほら、やっぱりビックリするぐらい綺麗じゃないッ』

 鏡に映った自分を見て、まるで別人に生まれ変わったような気分だった。
 そのまま二人で夜の街を探索してみると、面白いように男性たちが声をかけてきた。それは彼女と一緒だからと思っていたけど、それが私がひとりでいる時にも声をかけられたので驚いてしまった。

『これでわかった? 男性から見ても魅力的なのよ、もっと自信を持たなきゃッ』

 そう言ってビックリしていた私に微笑んだ翼先生だけど、声をかけてきたどの男性よりも、私には彼女の方が魅力的だと思っていた。

(さすがに恥ずかしくって言えなかったけどね)

 それから彼女のことがもっと知りたくて、最近では一緒にジムでトレーニングもするようになっていたのだけど、この頃は誘ってもやんわり断られてばかりで、よく遅くまで残業してるようだから同僚の男教師とでも良い仲になってしまったのかと勘ぐってしまった。
 気になってしまうともうダメな私は、一度帰宅してからコッソリと見にきたのだけど、ひとりで黙々と残業している彼女の様子から、どうやら私の思い違いだとホッとしていた。

「そういえば体調も悪そうだったし……も、もしかして中で倒れていたりして……」

 思わず口にしてしまった言葉に自分で青くなってしまう。思いかえせば、最近は熱でもあるのか顔が赤いことが多かったし、授業中の校庭でもボーッしていることが多かった。
 生物室からは校庭がよく見下ろせるので、私は暇さえあれば彼女の姿をいつも見ていたから知っていた。

「あぁ、もぅッ、凄く心配になってきちゃったわ」

 ウンウン悩みながら、綺麗にセットしてきた髪を指でいじるけど、すぐに車を降りて歩きだした。
 悩むぐらいなら行動する方が早いというのが彼女の口癖で、私はそれに倣って校舎に入って彼女の様子を確認することに決めたのだった。



 鍵を持っている通用口から入るとサンダルから来賓用のスリッパに履き替える。
 帰宅して着替えてきたから今はチノパンにキャミソールという服装で、これも彼女に選んでもらって買ったお気に入りの一着だった。

「でも、いきなり私が来たら驚くよね……ふふッ、それとも喜んでくれるかしら」

 仕事の時は恥ずかしいのでいつもの地道な姿のままだけど、プライベートの時は今と同じくコンタクトに代えてメイクもしっかりするようになっていた。
 あれから通うようになった美容室のスタッフともすっかり仲良くなって、彼女の話を聞きながらメイクの仕方やおすすめ化粧品とかいろいろ教えてもらっていたし、街中で知り合いに出会っても相手が私だと気付かないのを楽しむ余裕ぐらいできていた。

「まるで魔法をかけてもらったシンデレラみたい」

 自分の言葉にクスクス笑いながら、浮かれていた私は彼女がいるだろう職員室へと向かう。
 彼女を気遣うという大義名分で、こうして会いに行けるのが純粋に嬉しかった。

「うわ、夜の校舎って……な、何気に怖いわね」

 非常灯だけが灯った薄暗い校舎を歩くのは思っていたよりも怖い。特に幽霊やお化けの類いが苦手な私にとっては、十分に肝試しの気分にさせられて、パタパタとよく響くスリッパの音が妙に反響して聞こえるのが余計に不安を煽る。
 時折、窓の外でガサガサと風に揺れる木々の影にビクついてしまって、慌てて背後を確認するというのを何度も繰り返しながら、それでもどうにか職員室にはたどり着けた。
 だけど、そこには肝心の彼女の姿はなく、結局はそのまま暗い校内を不安げに背中を丸めて探索するはめになってしまっていた。

「うぅ、怖いなぁ……」

 せめてもと灯りにスマートフォンのライトを点灯しようする。そんな私の視界の隅に動く影があった。

「うひぃッ、そ、そこにいるのはなにッ?」

 慌ててライトの光で照らすと、それは逃げるように曲がり角へと消えていった。
 耳をすませば、微かだけど遠ざかる足音が聴こえる。

「あ、足があるなら幽霊じゃないよね……」

 逃げた相手が人だとわかると現金なもので、途端に私の不安が消えていく。同時に、これからどうするべきか対処に迷ってしまう。

(こんな時、彼女ならどうするだろう……)

 昔から迷いが生じたら、もっとも理解している頼りになる人をイメージすることにしていた。もちろん、今は翼先生で、彼女の考え方や行動を思い出してトレースしていく。

(……うん、そうだよね)

 手近な教室に入ると、掃除道具入れの中から丈夫そうな箒を見つけて手に取る。
 翼先生は剣道の経験者でもあって、定期的に教師たちでおこなう侵入した不審者を取り押さえる訓練でも、その腕前を披露していた。そんな彼女の動きを思い出しながら、箒を軽く振って感触を確かめる。
 最初はイメージと自分の動きにズレがあったけど、何度か繰り返すうちにそれも次第になくなっていく。すると、自分が常に毅然としている彼女になったかのような気がしてきて自信が湧いてきた。
 それに満足すると先ほどの曲がり角まで戻ってみる。その先は長い廊下になっていて、遥か先にみえる人影が小柄なシルエットなのを確認すると少しホッとした。

「さぁ、いくわよッ」

 自分を鼓舞した私は、走りにくいスリッパを脱ぎ捨てて裸足になる。そして、音を立てないようにして人影を追いかけていった。